ちっこい愛

f:id:sakitrack:20160531110056j:plain

 

愛の重さ

私の両親の愛はでかくて重い。結婚して家を出た今も彼らの愛はけっこうな温度と密度で伝わってくる。

「この温度で愛されてるから、同じ温度で愛し返さないといけない」と長らく思っていた。

それでも彼らと物理的な距離を置くことは正解だと思う。今更実家に戻っても、とてもじゃないがリラックスはできない。

 

夫と呼ばれる存在

結婚していても、愛し合っていても、人間相手のすべてを許容し受け入れ、自分の全てを相手に捧げられるかというとNOだし、私だって相手にそんなことは望んでいない。

もちろん夫のことは愛しているが、自分の「全部」をなげうつ気はないし、夫の「全部」も引き受けられない。

まずは自分の足で立つこと。

メサコンやら共依存やら、不健康な関係性に陥らないためには、自分で立って歩かないといけない。足を動かすのも、心臓を動かすのも、二人ではなく個人の作業だ。孤独な仕事だ。

でも隣に誰かがいてくれれば、やりがいもあるというものだろう。

 

ちっこい愛

最近、「ちっこい愛」を集めている。

何だそれ、と言われそうだが、例えばこんな感じだ。

 

行きつけの喫茶店でオーダーする。私は毎日、下手すると一日二回は来ているので、店長さんはじめ他の店員さんも覚えてくれている。

「アイスラテのSを」

私が言うと、店員さんは「いつものですね」と言って笑って、アイスラテと、お冷や用の大きめのグラスを出してトレイに載せてくれる。お冷やのグラスは、専用のカップがあるのだが、私は長居するしいちいち汲みに行くのが面倒なので、ちょっと前からお願いしているのだ。それもすっかり覚えてくれていて、ほとんどの店員さんはわざわざ言わなくてもつけてくれるようになった。

 

あるいはタバコ屋でのこと。

馴染みのタバコ屋のおばちゃんは、私がマルメラしか吸わないのを知っているが、

「これ、メンソール入ってて同じ8mgだから、予備に吸ってみて」

とサンプルを多くくれる。

 

他にも様々な店などで人と話すようになった。
カフェで隣の人がライターをなくしたような顔をすれば一本献上する。彼ないし彼女は「ありがとう」と言って、代わりに何かくれたりする。そこから始まる会話や関係もある。

 

親の愛や夫の愛は、でかくて、深くて、温度が高くて、それはそれでありがたい。

だが人間、それだけで生きていけるだろうか。

そんな疑問を抱きつつ、私は今日もちっこい愛を探す。