「家族」ってなんだろう

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 「家族」。こんなにシンプルな言葉ながら、こんなに難しい言葉はなかなかないと思う。

 大辞林では、「①夫婦とその血縁関係にある者を中心として構成される集団。②民法旧規定において,戸主の統率下にある家の構成員。 → 家(いえ)」となっている。

 でも、これっておかしいよね。

 夫婦とその血縁関係にある者を中心として構成される集団が家族だとしたら、ひとり親世帯は家族じゃないことになっちゃうよね。それに、血縁関係に規定されるなら、養子縁組も家族じゃないことになっちゃう。どっちも、②の戸主の統率下にある家の構成員ってところでカバーされるけど、ここにも落とし穴がある。たとえば、結婚して戸籍から抜けた娘は、もう家族じゃないのかって問題が発生しちゃう。

 こうやって、辞書で定義したとしても、いくらでも落とし穴がある言葉。

 まぁ、言葉なんて大概のものがそうなんだけどね。

 「家族だと思えばその人は家族」って論理でもいいのかもしれないけど、その場合、血縁があっても家族じゃないって事例が多発するよね。生計を共にしていたり、一緒に暮らしていたり、血縁があったりしても、家族じゃない。それもまた不思議な話。それにこの場合、AさんはBさんを家族として認識しているけど、BさんはAさんを家族として認識していない、なんて事態が起きちゃう。

 そんな意地悪ばっかり言ってないで、家族って何なのかさっさと教えろよって感じかもしれないけど、ちょっと考えてみてほしいんだよね。

 家族の形が多様化してるって言われてる現代社会において、「家族」ってなんだろう。

 大切に思ってる人?大切に思えない家族だっているよね。

 同じ戸籍に入ってる人?ちょっと前に話題になった同性愛パートナーシップは、同じ戸籍には入らないけど家族だよね。

 血縁関係にある人?夫婦には血縁関係はないよね。それに、養子縁組だって血縁はない。

 結局、家族って何なんだろうね。

 実のところ、それぞれなりの定義があってもいいと、私は思ってる。

 私はまだ、自分にとっての家族が何かよくわからないから、こんな禅問答みたいな文章を書いてみたわけだけど。

 ただ、考えてほしいなと思うんだよね。

 あなたにとっての家族の定義は、他の人と必ずしも同じとは限らないってこと。

 100人いれば100通りの「家族」があるってこと。

 それを受け容れられる人がたくさんいれば、きっと今より少しだけ素敵な社会になるんじゃないかなと思うんだよね。

 なんて、柄にもなく真面目に考えてみましたとさ。おしまい。

薄い血

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家族といっても様々な形態がある中で、この現在で、私にとっての家族はやはり血のつながった実家の両親と弟の三名という印象が強い(弟は東京だが)。夫は、私が「自分の力で得た家族」であって、血はつながっていない。もちろん、夫のことも大事な家族だと思っている。だが「哀愁のチバラキ」の三名とは、どこか違うのだ。


私が、自分のメンタルの治療も途中で、経済的にも自立できておらず、夫も勤め始めて長くない状況で、それでも結婚したいと思ったのは、夫が酷い風邪を引いて十日間寝込んだことがきっかけだ。

もともと私たちは、結婚を前提に同棲を始めた。予定では、私もある程度の稼ぎを得て、精神的にも経済的にも互いの両親から「自立」できてからだと考えていた。

そんな中、夫が倒れた。
体温計は40度を指し、辛そうに汗をかいてうなっている。私は病人の看病などしたことがなかったので、クックパッドでおかゆの作り方を調べて作り、スポーツドリンクをヒーヒー言いながら何本も買ってきて、病院に同行し、ただひたすらに彼が楽になることだけを祈った。

その時に、思ったのだ。
彼にもしものことがあった時、実の家族である義母には連絡が行くだろうが、書類上何の関係もない私に一報が届くだろうか?
その逆も然り。私に何かあった際、「哀愁のチバラキ」には知らせがいっても、彼が不在だったりしたらどうなるのだろう?

「この人と『他人』でいるのは、もういやだ」

そう思って、彼と相談し、半年後に入籍した。


話を戻すと、上に彼が倒れた時「クックパッドでおかゆの作り方を調べて作った」と書いた。寒いと言うのでダブルの毛布を自力で買いに行ったりもした。苦手なフルーツも、彼が食べたいと言うので買ってきて食べさせた。

彼が回復した後、実母にそれを報告すると、とんでもない爆弾を投下された。
私は料理が不得手である。実家を出るまで包丁すらまともに握ったことがなかった。彼との同性&結婚生活で、徐々に慣れてきてはいるが。

母は、私が「必死こいて」やったつもりの看病に、ダメ出ししてきたのだ。

「おかゆはちゃんと鶏肉からダシを取ったの?」
「同じ味のものばかり食べさせたんじゃないでしょうね」
「高熱の時はおでこより脇を冷やさないと意味がないわよ」
(以下略)

治ってから言われても困るのだが、結局私がどうしたかというと、泣きながら夫に謝った。夫も困っていた。
ちなみに母は、

「次から気をつければいいじゃない」

と笑顔(推定)で言った。何の励ましにもなりゃしねー。


私と弟はとても仲がよかった。実家時代は一緒にゲームをしながら何時間もしゃべった。真面目な話も、ネットのネタ動画の共有も、何でも話した。
奴は今、東京の、ウチから遠い方に住んでいる。一度遊びに来たこともあるし、夫とはオタク同士仲良くやっているようだ。

弟も、ちょっとした障害持ちだ。就職には本当に苦労した。
私はその話を母から聞いていた。でも、すでに家を出ていた私は、それが、あんなに大好きだった弟のことなのに、どこか遠く感じられて、今はアイツより、夫が大事だなぁ、とぼんやり考えていた。


血の縁は、確かに切っても切れないのかもしれない。
でも、つながりながらも、薄くなるのかもしれない。
それは生活が作用する問題かもしれないし、共に過ごす時間が要因かもしれない。

「血縁」というものは他にないコネクションだ。
しかしそれを絶対視するのではなく、薄くつながる程度で、適切な距離を保ちたい。

今週のテーマは……

今週のテーマは「愛」でした。

 

というわけで、かるく感想でも。

 

愛と優先順位(たちばなさん)

それが優先順位的には下位でも、愛であることに変わりはないのだから、良しとしようじゃないか。

最後の一文で鳥肌が立ちました。

親から受ける“愛”の話なので、子供の立場、親の立場、両者の視点から読めた気がします。

 

ちっこい愛(戸村さん)

ひとり「あー!たしかに!」と頷き、似たような場面を思い浮かべてしまいました。

きっと誰にでもある些細な出来事だと思います。

 

 

 で、わたくし上原は……、とくに伝えたいこと、書きたいことがあったわけではなく、最近ストレスに感じている愛と責任についてチャラチャラ書いてみましたー。

 

 こんな感じのゆるい雑記ブログですが、「別にブログ飯したいんじゃなくて、純粋に何か読みたいんだよ!」という方々の暇つぶしになれますよーに♡

愛と優先順位

f:id:tcbn91:20160702095151j:plain 両親は、無償の愛を惜しみなく注ぎ、私を育ててくれた。このことに異論はない。愛されて育ったという実感はあるし、両親から愛されているという自信もある。
 しかし、私の兄や姉は、私よりも愛されている。そう、愛には優先順位があるのだ。
 兄弟のほうが愛されている。そのことに気が付いたのは、小学生の頃だったと思う。何ら特別なことがあったわけではない。ただ、日常的な事象の積み重ねの結果、そう思い至るようになったのだ。例えば、同じ要求をしても、私は許されないのに、兄弟は許されるとか、そういうことの積み重ね。
 子供の頃は、不条理だと思ったし、そのことに対して怒りすら覚えていた。それなりに寂しく思ったし、自分は必要ないんじゃないかと悲しくもなった。とはいえ、愛されているという一応の実感はあったので、親に対する反抗に走るわけでもなかった。
 大人になった今どう思うかと言うと、「仕方がない」の一言である。
 両親だって人間なのだ。ごく普通の、良いことも悪いこともする、人間なのだ。
 無意識のうちに、「あの子よりこの子が好き」「あっちよりこっちが大切」なんていう優先順位をつけるのは当たり前のこと。そう思うようになった。
 最初にそう思ったときには、とても悲しい気持ちになった。私は愛されなくて当然だったのかと。私が可愛げのない子供だったから、愛されなかったのだろうかと。
 けど、自分がメンタルの病気を抱えるようになって、親に初めてそのことを打ち明けたとき、驚くほど温かく、優しく受け入れてくれて、愛されてないわけじゃないんだと気付いた。むしろ、十分すぎるほどに愛されていると。
 愛には優先順位がある。しかし、それは愛する側が聖人君子じゃない以上仕方がないことであって、それは悲しむことでもなんでもないのだと、それ以来は思えるようになった。
 もちろん、時には腹が立つこともある。何故こんなときにまで兄を優先するのか、何故こんなときでも姉を大切にするのか、と。でも、腹が立つのも仕方がないこと。
 愛なんていう言葉にすると、まるで高尚で、平等に与えられるもののように聞こえる。けど、愛を与えるのは神様じゃなくて人間。ならば、そこには不平等があっても仕方ない。
 不平等がある、優先順位があるイコール愛されていない、というわけじゃない。優先順位はあるけれど、それでも愛されているのだと思う。
 子供のころは受け入れられなかったけれど、今ならわかる。親は親なりに精一杯に私を愛してくれている。
 それが優先順位的には下位でも、愛であることに変わりはないのだから、良しとしようじゃないか。

ちっこい愛

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愛の重さ

私の両親の愛はでかくて重い。結婚して家を出た今も彼らの愛はけっこうな温度と密度で伝わってくる。

「この温度で愛されてるから、同じ温度で愛し返さないといけない」と長らく思っていた。

それでも彼らと物理的な距離を置くことは正解だと思う。今更実家に戻っても、とてもじゃないがリラックスはできない。

 

夫と呼ばれる存在

結婚していても、愛し合っていても、人間相手のすべてを許容し受け入れ、自分の全てを相手に捧げられるかというとNOだし、私だって相手にそんなことは望んでいない。

もちろん夫のことは愛しているが、自分の「全部」をなげうつ気はないし、夫の「全部」も引き受けられない。

まずは自分の足で立つこと。

メサコンやら共依存やら、不健康な関係性に陥らないためには、自分で立って歩かないといけない。足を動かすのも、心臓を動かすのも、二人ではなく個人の作業だ。孤独な仕事だ。

でも隣に誰かがいてくれれば、やりがいもあるというものだろう。

 

ちっこい愛

最近、「ちっこい愛」を集めている。

何だそれ、と言われそうだが、例えばこんな感じだ。

 

行きつけの喫茶店でオーダーする。私は毎日、下手すると一日二回は来ているので、店長さんはじめ他の店員さんも覚えてくれている。

「アイスラテのSを」

私が言うと、店員さんは「いつものですね」と言って笑って、アイスラテと、お冷や用の大きめのグラスを出してトレイに載せてくれる。お冷やのグラスは、専用のカップがあるのだが、私は長居するしいちいち汲みに行くのが面倒なので、ちょっと前からお願いしているのだ。それもすっかり覚えてくれていて、ほとんどの店員さんはわざわざ言わなくてもつけてくれるようになった。

 

あるいはタバコ屋でのこと。

馴染みのタバコ屋のおばちゃんは、私がマルメラしか吸わないのを知っているが、

「これ、メンソール入ってて同じ8mgだから、予備に吸ってみて」

とサンプルを多くくれる。

 

他にも様々な店などで人と話すようになった。
カフェで隣の人がライターをなくしたような顔をすれば一本献上する。彼ないし彼女は「ありがとう」と言って、代わりに何かくれたりする。そこから始まる会話や関係もある。

 

親の愛や夫の愛は、でかくて、深くて、温度が高くて、それはそれでありがたい。

だが人間、それだけで生きていけるだろうか。

そんな疑問を抱きつつ、私は今日もちっこい愛を探す。

ダサい愛なんていらないもん

 

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わたしの服は、いつもどこかダサい。自分のファッションセンスに絶望寸前だ。
三十路までのカウントダウンが始まったと同時に、童顔メイクに目覚めてみたり、チェック柄の子供っぽい服を着てみたり、色いろ頑張っているもののダサくなってしまう。

いや、むしろ「ダサい」という表現を優しく感じてしまうほど、周囲から「イタイ」と、思われていそうだ。

つい先日、わたしのファッションセンスかよ? と思ってしまうような、ダサくて、イタイ「愛」があることに気づいた。

わたしの元夫は、暴力団組員なのだが「子供に繋がるから」「子供のため」という、子供おもいの父親のようなセリフを使い「シノギに繋がりそうな人を紹介して」と、言ってくる。

元夫がわたしに望んでいることを言い換えると、組織犯罪の片棒を担いでくれ、と言っているようなものだ。

別に犯罪の片棒を担いで欲しいわけじゃないのかもしれないが、わたしがわたしの知り合いを反社会的な人に紹介しようと思うわけがない。

最近、この件で捻くれていた元夫の横暴さに耐えきれず、娘に、元夫とのやり取りを見せて、説明した。

すると娘は「それって、わたしのためにならないじゃん。なんで、そんなこと分からないんだろ?」と、少し怒っていた。

わたしは、元夫に「わたしに全ての責任を押し付けるような態度が負担になっている。それが続くようなら、娘は、あなたが引き取ればいい。わたしを当てにしないでほしい」と、何度も、何度も伝えてきた。娘が生まれてからずーっと、同じ話をしてきた。

だけど、残念なことに元夫には、全く伝わっていない。

わたしは7年間、我慢に我慢を重ねてきたけど、娘を理由にして、わたしに不快感や恐怖感を与えるような元夫の発言を、心底イヤだと思った。

もう限界だし、わたしが思ってること、感じたこと、全て話してみよう。

わたしが話終わると、娘が俯きながらこう言った。

「わたし、生まれてこなければよかった。かぁかにいっぱい苦しい思いをさせて……ごめんなさい」

生まれてきてくれて、嬉しいし、愛してるよ。娘が、わたしを苦しめているわけじゃない。私に負荷をかけるのを「子供のため」だと、平気で言ってのける元夫はキライだ。ああいう考え方が娘ちゃんに「ごめんなさい」って、言わせているのに。1ミリも伝わらない。

きっと元夫は、娘に何でも話しているわたしを憎むだろう。というよりは、「わたしが娘を洗脳してる。だから、俺は、娘から嫌われるんだ」と思うはず。つまり、全てわたしの責任で、元夫に悪いところなど無いのだ。

この世に、そんな都合のいい愛が存在するのか。愛と責任は同居しているのであって、ひとりに負荷をかける関係に愛は存在しない、と思う。

 

そんなダサい愛を注ぎ、注がれるくらいなら、自分と娘だけを愛したい。

 

 

ふと、自分の足もとを見て「ふふっ、今日のサンダルと靴下、元夫の愛みたいだな」と思った。

 

どう足掻いてもオシャレだとは言えない組合せ。

 

そんなダサい愛なんて無くても生きていけるし、ダサい愛なんていらないもん。

 

(上原由佳子)

自己紹介(上原由佳子)

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上原由佳子(@yu756ka)

88年11月生まれ。沖縄在住。

 

新聞の連載用プロフィールをコピペしたい気持ちを抑えながら、自己紹介書いてるなう。趣味は寝ること。好きな食べ物は魚天ぷら。気になるひとがロックマンに似ているから、ファミコンロックマンをやってみようか検討中。

 

琉球新報教育面「未来へいっぽにほ」、messy「シングルマザー女子大生・上原由佳子の事件簿」わず。

 

モテない内容だから、リンクはりません。